昭和五十七年五月八日 朝の御理解


御理解第十四節
神は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさる


 もう十年も前の事だったでしょうか。ある教会の先生方がある用件で見えられましたから、応接間でお茶をあげながらの話でございましたけれど、丁度お庭の方がきれいになっておる時でしたから、まあ見事なお庭ですね、と云うことからでしたけれど、教会長が庭を美しゅうするような事では人は助かりませんもんねえと云う話をされました。
 これは皮肉とも受け取れれる感じでした。それは、私が庭いじりが好きで庭をきれいにするというような事では確かに人の助かる、中にはも、花作りの名人の先生がおられます。小鳥を飼ったり、ね、庭いじりをするのが好きで、まあそれこそ、商売に、はだしのように植木なんかを見事に作ってあるお家があります。いわゆる先生が暇なんです。
 だから、そういう意味の事を云われたんだと思うですけれどもね、で私は申しました。と云うて、教会の庭が荒れとるような事じゃ、人が助かりませんもんねぇち、私が申しましたね。
 勿論、教会長がするわけじゃないけれども、それこそ、掃除やら、庭の手入れやらは、おかげ受けた信者、なら、信者達が思いを込めて奉仕をする。だからいつも光り輝きしよる。
 まあ私はいつも云うように、真善美輝く世界という風に申しますけれどもね、やはり、その、真善美輝く世界こそ、神様のお喜びの世界なんです。庭があるのに、庭が荒れ放題といったような事では、いわば神様は荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるということは、神様の働きを受けていないということなんですね。
 成る程、教会の先生がね、自分の趣味や、道楽のためにま、庭をきれいにするといったような事では、確かに助からんかもしれませんけれどもね、と云うて、なら教会の、なら、お庭ができたのに、お庭はいつも荒れ放題で草ぼうぼうといったような事では、そういう教会は、いよいよもって人は助からないね。助かってないからこそ、そう云うような、奉仕をする人もないということになるわけであります。
 まあ荒れ地荒れ屋敷をお嫌いなさるということも、そういう見地でとらえて参りますとね、各自各自のお家なんかでもそうですね。いわば真善美といえばね、真の世界、悪のない世界ね、魂、いわゆる見苦しい、汚いもののない世界。それが真善美。ま、真善美に輝くということは、ま、意味は他にもあるそうですけれども、私はそのような風にとらえられておる。
 だから、真善美の世界というものが、結局自分の心の中にも頂ける。心が荒れたり、心が荒れ地荒れ屋敷になっておったんでは、いわゆる、折角のおかげもおかげになりませんし、どんなに有り難いお話を頂いてもね、云うならばどんなに素晴らしい種を蒔いても、荒れ地荒れ屋敷に蒔いたんでは、良い芽も出らないというわけであります。
 だから形の上の事もですけれども、まず自分の心の中に、真善美の足ろうたおかげをいただきたですね。
 昨日御祈念の時に、銀河ということを頂いた。銀の河と。私、銀の河というのは、天の川の事だと思うですよね、天の川。だから私は、結局子の稲員さんと云う方は非常に心の美しい方ですね。いわゆる、天の心とは限りなく美しい心、しかも、無条件の心という風に、云われる、ま云うなら、天の心をま、持ち合わせtおられる方です。
 もう自分はそういうまあ、美しい心で合楽といつも交流したいというな願いを持った方なんです。そりゃ、なかなか、沢山お金があるからできるといったような事ではありませんですもんね。大祭の時なんかでも、例えばビールなんかは、あの大きな箱で十箱ずつお供えされます。この前の霊祭の時に、何十本と云うて、菊正宗のお供えのあったのも、稲員さんです。もう、そういう神様に向ける心の美しさというものは、私、もう驚くくらいです。
 ですから、ま、天の川と天の川的な、恵みを受けておられるわけですね。河はお恵みということでしょうね。だから稲員さん、あんたに欠けておるものは、云うならば地の塩ということを頂いたんで、あれはキリスト教の言葉ですもん。意味が分からんから、先生方に聞きましたけども、知りませんけれども、まあとにかく、地の信心。
 そこには辛抱力というかね、云うなら黙って治めるといったような信心に欠けておるから、ここんところをま、頂く稽古をなされなけりゃいけませんですよね、と云うてま、申しました事でした。ありゃ、もう、本当に。
 だから、不思議にあそこにおかげを頂く人達、あそこにグループで集まっていかれる人達は、皆やっぱ、右へ習えですから、そのそういう美しい方達が多いです。こりゃ不思議ですね。
 やっぱ、その芯に、が美しいとやっぱ美しい人達が集まるね。こりゃ、もう、本当にそうです。ここにしげしげと参って今けれども、もうそれこそ日参教聴信行が出けておられますね。本当はこれはやっぱ、おそらく稲員さんがそういう風に教導しよんなさっとだろうと思います。だから、皆おかげを頂きますね。
 その事をもって、合楽と交流するんですから、そこから云うなら、おかげのルートができます。いわゆる天の川である。ね。だから、これに、地の信心が出けたら素晴らしかろう。
 今朝から私はお知らせを頂いたんですけれども、まあ、三十か四十になられる品の良い婦人が、真っ黒い、黒っぽい着物に黒繻子の帯を閉めて、そして真っ暗い中をぼんやり灯っておる提灯を持って、こ、歩いておられるところを頂いたんです。どう云うことだと思うですかね。ある婦人の方がね、真っ黒っぽい着物に黒繻子の帯ですから、これも真っ黒です。そして提灯をもうそれこそ、あの真の闇という中に、少し提灯をつけて、こう歩いておられるところ。
 私はそれから感じたんですけれども、お先真っ暗と云いますね。例えば信心をいとってもね、やはり、そのお先真っ暗ですよ。先のことは分からんとですよね。皆さんでもそうじゃないでしょうか。
 けれどもね、信心という明かりを、提灯を持っておるから、足元がぼんやり明るいから道を間違えんで歩く事だけはできるんです。だから道を間違えずに歩いていけるからね、そこに、ま、お先は成る程、真っ暗なんだけれども、分からんのだけれどもね、この道を歩いていけばおかげに到達するというような、ま心が頂けるということであって、実際がお先は真っ暗です。
 けれども、信心という明かりを持っておりますからね、足元がぼんやりありますね。そこで、なら、足元、私は黒っぽい着物ということはやっぱり、身体全身をもって、なさねばならないような苦労を持っておる人だと思いますね。
 黒の繻子の帯をというのは、やはり、しっかり信心の帯をせよといわれるその苦労があるから、もその修行もまたでけておる。苦労があるから、難儀な事をかかえておるからおかげで、朝参りもでけておるという人達もやっぱありましょう。 おかげで、苦労のおかげで信心がでけとります。朝参りが出けとります。かと云うて、お先が明々としたものではない。分からんのだ。先はもう先のことは人間じゃ分からんのだけれどもね、足元に頂く、その灯りはね、この灯りを持っていけばね。この道を間違えずに歩いていけば、おかげになるだろうという確信が、段々強くなってくる。できてくるということでありましょうと思うた。
 小倉の桂先生の御教えの中に「月入らば また輝ける 日の出かな」という有名な御教えがありますよね。これはまあ、ある教会の先生にお書き下げになられたというその軸が今でも残ってるそうですがね。
 月入らば また輝ける 日の出かな
 昨日の御理解じゃないけれども、苦労とまあ、ま、幸、不幸がね、あざなえる縄のようにというわけでしょうけれども、私は思うのにね、月入らば また輝ける日の出に向かって進んでいくのですけれども、やはり、その、月があって真っ暗闇の中に、信心の光を頂くということが、私は信心だと思うです。
 真っ暗闇であっても、なら、自分の足元のとこだけは、不自由しないという生き方を身につけなければならんのだけれども、信心頂いておっても、光がないならば、もういよいよお先も真っ暗、足元も真っ暗。
 だから、道を間違えたりね、こけたりするということになるのじゃないでしょうか。お互い、だから信心とは光を頂くことということになります。光を頂いとけば真の闇になってもなら、自分の足元だけは明るくする事ができる。
 勿論それが、信心の光が大きな光にもなるようなおかげを頂けば、また格別。御神徳を頂けばまた、格別ですね。
 だから、信心による光というものがせめて、足元だけでもね、ぼんやりでも明るく道を間違えんでいく、いけれるような、生き方をいよいよ身につけていくことの為に、いよいよ自分の心の中の、いうならば、ま雑草的な荒れ地荒れ屋敷的な心をね、整い、心が整う生き方をいよいよ身につけなければならん。ということになります。
 難儀様のおかげで信心ができますとこうまあ、いうわけですけれども、ね、その難儀の中にもいわば、足元だけには、灯りが頂けておるというおかげと頂いて、だからこの道を間違えずに歩いていけば、おかげが受けられる。しっかり信心の帯をせよ。
 それこそ、黒繻子の帯じゃないですけれども、ね、やはりしっかり信心の帯を締め上げ、締め上げして参りませんと、なら、実際朝参りも出来ませんもんね。そうしていくうちに、なら、自分の心の中に、果たして、光が頂けておると。もし頂けていないならば、あなたの心が荒れ地。信心なしとるけれども、荒れ地荒れ屋敷になっておるんだとさとらなきゃいけません。そこに改まりがいります。 昨日、ある方から電話がかかってきた。ある方ちいうか、伊万里のお母さんからでしたが、今朝からの朝の御祈念をさして頂いてから、あのう、和教さんというですね、正教先生の弟になりますが、御祈念の後にお話をした。親先生の御理解を頂いた後に、御理解のま、分かりやすく、その時の御理解が改まるということの御理解だったらしいんですね。
 だから改まるということは、新たに○をつけていく事だというたら、そしたらお話を聞いている人達が、はあ、改まるという意味が分かりましたと云うて喜んだという電話がありました。
 改まるじゃけん、新たな○をつけていく事ね、今日は本当に改まっていく生き方が出来たというときには、○をつけていく。今日は改まる事を出来なかった時には、×をつけていくという意味でしょうね。改まるということは、新たな○をつけていくことだと、そういう新たな○をつけていく生き方からです、心がいうならば、雑草が取り除かれ、荒れ地が打ち耕されるところにね、いわば、真善美に輝く世界というものが、心の中に頂けてくるようになるね。
 黙って治める。大地の信心といったような信心に取り組んでおる方達もです、やはり、なら、これだけではいけん、やっぱ天の川がいるのである。限りない美しい心を起こさなきゃいけんね、無条件の奉仕が出来なければならぬというようにです、そういうような欠けておるものに取り組んでいくということがね、やはり、荒れ地荒れ屋敷を心の中から除いていくことになるのだという風に思いますね。
 今どんなに苦労の真っ最中というときであっても、苦労のおかげでなら、出来ない修行も出来ます。信心も出来ます。が、おかげで心にま、ぼんやりした提灯の光のような光ではあっても頂けておるというおかげを頂きたいですね。
 だから足元だけを照らすのですから、お先は真っ暗ですけれど、分からんのですけれどもね、この道を間違えずにいけるというところから、確信が生まれてくるしね、また月入らば また輝ける 日の出ということにもなるでしょうし、日の出が来ても、また真っ暗になるということになりますから、あざなえる縄のようなものですけれども、真っ暗になっても、もうそのころには、自分の心の光が大きく育っておるというような、おかげを頂きたいですね。
 ま、昨日頂いた御理解やらをもう一段深くしていくことが、出来ると主卯ですね。確かに昼があれば夜があるのです。けれども、夜になっても、どんなに真っ暗闇であっても、心の光が段々大きく育っていくというところにですね、いつもいうならば、不自由せんで済むおかげの世界があると思うですね。  どうぞ